公園に遊びに行く子どもの親として、こう思う。
ときにボールがブルーシートの近くに行くと、
恫喝するオジサンがいて。
ただでさえ、いろんな事件がある中、
安心して子どもが遊べるスペースに路上生活者がいることに、
正直に言って、
違和感を覚える。
だが、職業柄いろんな方に話を伺うと、
オジサン方の人生が見えてくる。
好きでやっている人などいない。
人間関係が結べず、職にあぶれ、
不景気や加齢で働く場を得られない。
過日、
「信用、に、ついて NNNドキュメント06より」
という記事で書いたとおり、
路上生活になるにはいくつもの捨てるものの段階があり、
誰もが一番最初に路上で寝た日、
恐ろしくて眠れなかった、と述懐するのだ。
友人が言っていた。
「4日も5日も何も食べられない日が続き、
それでも誰かの残した残飯に手をつけるというのは、
本当に勇気がいることなんだ。」
「プルーシートのオジサンたちの定住支援をして気付いたことは、
家が持てれば屋根があれば、
そう思っていた俺たちの考えはあまりに一面的だった。
ある人は孤独から公園に舞い戻り、
ある人はアルコホル依存症になり急逝、
ある人は一日に6回も7回もご飯を食べ、
とにかく屋根の下に入ることで、
放心状態になってしまい、
その後は未知の世界のフォローが続き、
結局屋根だけで人間性は回復しない、
とことん付き合っていくということなのだなぁと思った。」
そう言うのである。
かつては路上生活者といえば、
男性だったように思う。
だが最近は女性も屋根なき人になり。
数年前には子どもさえ。
つまり。
もうワタクシたちはそうした人々を、
視野の枠外にいつまでもおいてはおけないのだろう。
社会という全身性の中で、
いつまでも痛む深爪のように、
自分の体のどこかが痛む、
そういう気持ちを持つ時期に来ているのではないか。
自分の中にある、
自分と家族の生活圏にはこないで欲しい、
んでもって家から1時間の駅にいるオジサンたちに心痛む、
そんな自分自身をこれからどうしようか、
そんなことをワタクシ自身が、
そしてそれぞれが考えなければいけない、
そんな転回点にいるように思えてならない。
友人が言っていた、
「生存権が、優先する」
その言葉はあまりにも重過ぎる。
でも、その受け入れ難さこそが、真実なのだろう。
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